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できませんドットコム

できないならできないって誰かが言い切って欲しい

ご存じのようにウェブというのは集合知であって、わからないことでも少し調べれば「それはこういうことだよ」「それはこうやればできるよ」などと誰かの脳みそのアウトプットが教えてくれる、実に素敵なものだ。このような知の共有によって人類全体の知のレベルが底上げされ、また新たなる知への加速度も向上しているのだろう。

しかしウェブは、「それはこうやればできるよ」は教えてくれても、「それはがんばってもできないよ」ということはあまり教えてくれない。「なんか頑張ったけど上手く行かなかったんだよね」とか「ごく特殊なケースに限ってはこうやって力技でなんとかできたよ」とかいう情報はギリギリ存在するのだが、「それはできません(断言)」という情報はあまりないのだ。

それは無理からぬことかもしれない。技術や知のレベルは日々向上するのだからできなかったことに解決法が見つかることもあるかもしれないだとか(ポジティブシンキング派)、迂闊にできないと断言すると怖い人が「できるわボケ、死ねよ」と張り紙をして行くかもしれないし(炎上恐怖症派)、できませんでしたなんて書いたら自分の無能さを露呈しているみたいで嫌だとか(自尊心肥大派)、問題は解決策とセットで初めてコンテンツとして成立するのだとか(ブロガーの矜恃派)、できないことの証明なんて悪魔の証明じゃないかとか(古代ローマ派)、まあなんか色々な理由があるのだと思う。

けど、そのおかげでバカな僕などは先日「LESSでロングシャドウをばばーんってやるMixin書きたいなあ」などと思い付いたり「このBracketの拡張、途中でsleep()的な処理入れないと使い物にならないんだけどJavaScriptでsleepってどう書くんだっけ」などと考えたりした際、試行錯誤の末どちらもほぼ不可能であると結論するまでのそれぞれ3時間ほどを完全に無駄にするという実に悲しい思いをしたのである。

できないことに果敢に挑戦するのは素晴らしいことだけど、急いでいる時に妙な期待を持たされてちくちく頑張って「はい、3時間かけましたが結論としましては不可能です」とか言ったら偉い人にぶっ飛ばされて罵声を浴びせられて退勤後は飲み屋に連行され終電過ぎまで説教されて最後は泥酔した偉い人のタクシー代を僕が肩代わりすることになってしまうのでこわい。だってその偉い人は僕より年下のかわいい女性だからそれはやっぱり僕が肩代わりするしかない。これは一部の人にはたまらないシチュエーションだと思うけど全て妄想だから安心して欲しい。

だから、できないならできないって誰かが言い切って欲しいのだ。